38歳のおじいちゃん
明治22年。西暦だと1889年の生まれということになる。その年の出来事を検索してみると、すぐに出て来たのが大日本帝国憲法の公布だった。かつて僕は日本史で大学を受験したはずなのだが、情け無いことに、まったく記憶にない。徳川の時代が終わり、大政奉還、戊辰戦争、明治政府、廃藩置県、廃刀令とすでに近代化の道を突き進んでいた日本だが、新しい憲法が出来上がったのは明治22年だったとは少し意外だ。このときに、ようやく名実ともに天皇が統治する国、大日本帝国が人民に知らしめられたということだ。富国強兵という言葉も習った。この程度ならまだ覚えている。日本はこの5年後には大国、清国を相手に戦争を始めた。躍動するような明治の世相とともに、軍国主義に急速に傾いていく日本。そんな時代におじいちゃんは生まれたんだ。さらに調べると、なんと、アドルフ・ヒトラーとチャーリー・チャップリンが同じ年に生まれている。
福井縣在籍とある。福井県若狭の農村に生まれたことはぼくも知っている。ここには我が家の菩提寺とお墓が今もある。このときまだ38歳のおじいちゃんの本籍地は福井県のまま変わっていなかったということのようだ。次に、山下銀行、大塚支店長とある。銀行員だったことは後に聞いて知っていたが、支店長だったのか。38歳だととても若い支店長のように思えるが、当時としては普通の昇進スピードだったのだろうか。今よりは銀行の数も、支店の数も少なかっただろうから、支店長になれば人事興信録に掲載されることは当たり前のことだったのだろうか。順番が逆になったが、山下銀行とはすでに聞かない名前だ。今は存在していない財閥系の銀行の一つで、大阪に本社があったようだ。山下銀行は後の昭和8年に他の二行と合併して新和銀行となり、さらに合併と行名変更を重ね、今はメガバンクの一つになっている。
おじいちゃんは昭和3年7月の時点で支店長の職にあったわけだが、その頃は一体どんな時代だったのだろうか。マグニチュード7.9を記録して東京を襲った関東大震災からたった5年後のことだ。日本銀行百年史という資料がネット上で公開されていたのを見つけたので、その一部を読んでみることにした。銀行を取り巻く当時の経済状況が詳細に記されている。震災による東京市の損害額は25億5000万円で、大正12年の一般会計歳出規模13億2000万円をはるかに上回る甚大な被害だった。復興のまだ途中といえるであろう昭和2年、東京渡辺銀行の破綻観測と当時の大蔵大臣の失言に端を発した金融恐慌で、多くの銀行が休業に陥り、東京では一流銀行を除いて取り付け状態になった、とある。銀行に押しかける人達、これは日本史の教科書にも載っていた写真ではなかったか。このとき休業した銀行の名前が列記されているが、その中に山下銀行の名前は無かった。その後は物価の下落とともに不況が続くが、昭和3年から4年にかけては、企業活動の好転、設備投資の増加が見られたとある。しかし、緊縮財政、労働争議の増加などにより、昭和4年も後半になると再び不況の局面を迎え、そして10月のニューヨーク株式市場の大暴落を機に世界恐慌が始まる。政府は、昭和5年1月に金輸出解禁に打って出るが、株価は下落し、世界恐慌による主力産業、繊維産業への打撃も大きく、不況は深刻化する。
おじいちゃんの大塚支店でも取付が起きたのだろうか。今と違って本社からメールで頻繁に指示が飛んでくるわけではないのだから、支店長の判断による責任はさぞかし重かっただろう。おじいちゃん、ぼくは金融については正直苦手だから、その苦労をよく理解できてはいないけれど、困難な時代に銀行の支店長をやっていたことはわかった。しかも38歳とは、おじいちゃんは凄いな。ぼくと初めて出会うのはおじいちゃんが現役を引退した後のこと、これから39年後だよ。この不況はおじいちゃんの銀行員としてのキャリアにどう影響したのだろう。困難ばかりだったのか、もしくはチャンスだったのだろうか。心配したところで、もう遠い過去の話なのだけれど。
(つづく)
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