中年ノスタルジア 【第5話】

山下銀行大塚支店

当時、大塚駅前は東京の中でも屈指の繁華街だったようだ。花街もあって、相当賑わっていたらしい。ちなみに、当時は東京府の中に東京市があり、大塚のある西巣鴨は東京市外と呼ばれていた。興信録に記載された住所も、東京市外西巣鴨町池袋となっている。豊島区のホームページによると、関東大震災後に人口の流入が増えたとのことだ。関東大震災の詳細震度分析を発表している研究者によれば、大塚のあたりは震度5弱となっているので、どうやら甚大な被害は免れたようだ。不況の只中にあって、この地域の経済は比較的好調だった可能性が高い。意外だが、池袋の発展は戦後のことのようで、勤め先が大塚で、住まいが池袋というのも当時としては普通のことだったのだろう。大塚には今も都電の停車場があるし、山手線と都電が接続するターミナル駅だったわけで、大阪に本拠を置く山下銀行にとって、大塚支店は東京に持つ主要な支店の一つだったのか。実は、大塚は偶然にもぼくが社会人になって最初に通勤した場所だ。社屋の建て替えのために一時的に移転していて、一年くらい通っただろうか。渋谷に会社が移って以来、一度も足を運んだことがない。そう思ったら、久しぶりに立ち寄ってみたくなった。

ほぼ30年ぶりに大塚駅を降りる。都電荒川線の停車場は今も変わらない。今は廃止された都電大塚線の停車場も駅前の南口交差点を渡った南側にあったらしいので、昭和の時代から、南口のほうが街の中心であったと思われる。花街もその先だ。駅の様子はぼくが知っている30年前ともほぼ様変わっている。よく思い出せないが、間違いなく、こんな大きな駅ビルは無かった。昭和3年の大塚駅南口は一体どんな風だったのだろう。木造の駅舎、二つの都電停車場と山手線、未舗装の道路、ボンネットバス、交差点の角に山下銀行、おそらく飲食店も軒を連ねていたのだろうか。ちょうど目の前を発車したばかりの早稲田行きの都電が通り過ぎていく。車両は深い赤色で一見レトロなデザインだが、よく見ると真新しい。30年前は駅を降りるとすぐに右手に、山手線沿いを進むのが通勤路だったので、その存在を意識していなかったのだが、駅前の左手の角地に山下銀行をルーツの一つに持つメガバンクの大塚支店がある。都電の線路を渡って銀行を横目に見ながら交差点にたどり着く。見上げてみると、壁面にビルの名前が見えるが、メガバンクのグループに属する不動産事業会社の名前と思われる。つまり、自社ビルのようなもので、古くから所有している物件に違いない。建物は間違いなく建て替わっているように見えるが、この場所はきっとかつての山下銀行大塚支店そのものではないか。視線を下に戻した途端、少し暑さが緩んだような気がした。目の前をベージュ色の麻のスーツに、丸いつばの帽子をかぶった小柄な紳士が颯爽と建物に入っていく姿が目に入った。後を追って店内に入ったが、営業時間を過ぎた銀行の店内はATMが並んでいるだけで、訊ねる人は誰もいない。

腹を空かせておいたから、銀行の近くで行きたいところがすでにある。南口交差点を渡ってさらに入ったところ、かつての花街の入り口あたりに明治創業の老舗うなぎ屋があるというのだ。土用のう丑の日はもう少し先だが、もう梅雨が明けていてもおかしくないような天気で、夕方でも蒸し暑い。贅沢をするには良い理由が必要だ。銀行と同じく建物はすっかり新しくなっているが、この地でずっと営業しているという。念のため席を予約しておいたが、他に客はまだいないようだ。店内は落ち着いていて、冷房がよく効いている。早速うな重の竹を注文した。貴重な静岡、大井川のうなぎだという。蛸の和え物をつまみにビールをやりながらうな重を待つ。喉が乾いていたので格別だ。昭和の初め頃、花街は700人を超える芸者さんがいて、とても賑やかだったようだと女将さんが教えたくれた。また、当時は座敷のみで、夜の営業だけだったという。おじいちゃんもたぶんうなぎが好きだったのではないかな、接待の機会もあっただろう、昭和3年、おじいちゃんもきっとここにいたと思う。まさにこの席のあたりだったかもしれない。後から調べたのだが、現在流通しているうなぎの95%以上は養殖うなぎで、明治12年に深川で始まったうなぎの養殖は、その後浜名湖など東海地方に広がったとうなぎ養殖の歴史を記した記事に書かれている。さらに、天然うなぎの水揚げ量はまったく増加しない一方で、養殖うなぎのシェアは拡大していき、養殖と天然の生産量が逆転したのは昭和3年頃だという。奇しくも昭和3年、おじいちゃんが食べたのはどちらだったのだろう。ようやく待ちかねたうな重を目の前にして腹が鳴る。一口いただく、美味い。ふっくらしていて、辛めのたれがとても印象的だ。おじいちゃん、美味いね、ここのうなぎは、95年後にぼくも食べに来たよ。

うなぎ屋を後にしてから、池袋の方向にあった以前の勤め先まで歩いてみた。当時ここには仕事の行き帰りでしか来ていなかった。すでにバブルははじけていたが、30年後の働き方改革などまったく想像できずによく残業して働いていた。あやふやだったが通った道は覚えていた。ぼくが働いていたオフィスのあったビルはそのまま残っていたので、見上げると何故だか感傷的な気分になった。

(つづく)

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